昭和56年3月12日 朝の御理解              御理解 第62節                      「昔から人もよけれ我もよけれ、人より我が尚よけれと云って居るが、神信心をしても我が身の上のおかげを受けて後に人を助けてやれ、神信心も手習も同じ事一段一段進んで行くのぢゃ、俄に先生にはなれぬぞ。」                       人より我はなおよけれというふうに云っておられます、これは自分さえおかげを受ければよいという事ではないですよね。ちょっとそんなここん所を頂くとそんな感じがせんでもないけれども。次には人を助けてやれと、こうおっしゃっておりますから。


 先ずは自分がおかげを受けてという事です。
 ですからその自分がおかげを受けてという事の内容がいろいろありませうけれども、確かに信心の世界というかお道の信心をさせて頂けば、このおかげの世界に住む事が出けるという事。そのおかげの世界にしかも確かに間違いなく頂く事が出来れる、そういう体験を人に伝えていく、というふうに頂かなきぁならんと思うですね。自分だけがおかげ頂けばよいじぁなくて、自分がおかげを頂いたら、そのおかげを人にも伝えていく。
 そのおかげの内容がだんだんまあ広いというか深いというか、そういう内容にだんだんなっていかなきゃなりません。いわゆる初めから先生はいない信心も手習いも同じ事、一段一段と仰せられるのですから、その一段一段信心の上達を楽しませてもらいながら、限りなくここん所を続けていくおかげを頂かんならん。それで先ずおかげを受けてという事は、どういうような所をおかげと頂いたらよいだろうかとお願いをした。思いどおりにおかげを頂いたというおかげも勿論でしょうけれども、先ずは自分自身の心の中の事だと思う。昔からお道の信心でよく云われます事の中に〃喜び上手になれ〃と云われますね、喜び上手になれと。
 昨日も丁度研修終っとりましたら、あすこは、日田の向うの大山ですかね、そこから一ノ宮さんお礼に出てみえられました。
 この方は非常に喜び上手なんです。もう先生おかげで合楽におかげを頂くようになったら、ころっと売上げが変わるようになっておかげを頂いて、もうそれをもう度々云われるんです。
 だから本当にそういう生き方がすべての点に、頂けるようにならなきぁならん。今度縁についていられる娘さんが、癌、何んとか癌でその固まりが出けておる。それで診察の結果癌という事が分かりましたから、始めは癌ぢぁないだろうと云われておったけれども、精密に検査された所ががんという事で一日も早う手術をという事で、先達ってから手術をなさいました。
 おかげで無事にすんだだけではなくて、そんなはずはないがと云うて医者が云われるんだけれども癌ではなかった。何か丸いその何か腫瘍物が出けておって癌ではなかったという事のお礼に昨日みえましたから、私は貴方はね本当に信心の喜び上手だと、もうお参りするたんびに、お商売が繁昌する息子達がよく出けて、おかげで孫も本当に頭も良うして智慧もだんだん人並優れてあるようで、おかげ頂いてもう全部お礼の対照です。あちらが参ってまいりますと、そういうようなお礼お届けをされます。
 いわゆる喜び上手ですから、その喜び上手にもう一つ喜ばせて頂かにぁならない、おかげで娘がね癌のはずで手術を受けておった所が癌ではございませんでした。というお礼ではなくて、癌であったに違いはないのでしょうけれども、おかげで聞かせて頂いたら他の病気におまつり替え、まつり替え頂いておったという頂き方になったらすばらしいだろうね。
 四神様の御教えに「十の物を百も頂いたようにお礼を申し上げれば次は百のおかげ」とおっしゃる。百のおかげも、そ、千も万ものようにお礼を云えば、もう千も万ものおかげぞとおっしゃっておられます。また事実ねそんなら大きいいうならば、お礼を申し上げても、申し上げても足りない分からない程しに、おかげは頂いておるのです。ね、はあおかげで癌が癌でなかった、おかげ頂いたという程度であって、それをほんなら癌であったのですけれども、間違いなくそういう診察が上がっているんですから、精密な検査した所が癌だ一日も早う手術という事になっておったんだから、それを神様の偉大な力によって癌を他のものに、お祀り替え頂いて高大なおかげを頂きましたという事になる時に、十のおかげが百のおかげにも千のおかげにも感じられるでせうが、それを実感出来たら。問題はその実感が出ける信心なんです。ああおかげでふがよございました、癌でございませんでした。合楽にはそういう例がいくらもあるんです。
 ですから喜び上手という事はね、いうなら自分が十おかげを頂いたと思うたら、それをね百にもお礼を申し上げる心の状態、いつもそういう心の状態が出けておらなきぁならない。私はそのおかげを受けてという事は、そういう意味においての喜び上手というよう、総ての事を喜びで受けれる、おかげの状態が自分の信心にだんだん出けてくる。そこにね人に伝えていくでも実感として、十のおかげを百にもいうならば、伝えていく事が出けるでしょうが、今日私はおしらせを頂きましたのは、例えば商売をしておっても、順調にいっておるのが、ほっとある時期から、こうまあ繁昌ではなくて、反対の方になっていくような事があったり、例えば日々の上にでもいつも、これこれの売り上げがあっておるのに、今日はどうしてか売上が少ない、といったような時ですね、そういう時におかげを頂いてと、お礼の云えれる信心です今日の御理解は。
 今日はそうにぁ忙しかったごつあるばってん、売り上げはあんまりなかったねと、と云ったような生き方じぁなくてね、例えばそこにあのラムネを飲む時に中がちょっと、ひっこんどって玉がひっかかるように出来てるでしょう。あれをどくどくどくとむせる、だからちゃんと玉がひっかかるごと出けとる。
 だから丁度ええ具合に入っていくのである。そういう心にひっかかるおかげの方に頂けずに、どうしてじぁろうかといったような、今日はちぁんと朝参りもしてお願いもしてきたとに、どうしたこっじぁろかと云ったような、受ける方ではおかげにぁならんです。徳にはならんです。そういう時にね、いうならば此の頃から頂きますように、大きく神様の御都合だけで問題はないという頂き方はすばらしいですけれども、そのいつかかった事も、ひっかかる事もいうならばおかげと頂ける。
 そしてそこに又自分の信心を振り返らせてもらって、はああすこがお粗末ぢあったろ御無礼ぢあったろ、ここがたりなかった。いうならば間違いそうにある時、油断が出そうにある時にいうならば、そういういいかかりがあるんだというような事ですから、そこにいわば間違ひそうな時に、間違はずに油断が出そうな時に、油断せんですむようなおかげを頂くという事だけでも、ひっかかるという事は有難いです。そういう頂き方をするとね。ひっかかるその事もおかげ、それはならこっちの都合ぢぁなくてはあ今日は神様の御都合であったと、こちらがままになるのじぁなくて、神様がままになんなさるような日だったなぁというような頂き方。そすとなら売れた時も有難いなら、売れなかったときもありがたい、こりぁ商売だけのこっじぁないですよ、ねえ、いうなら有難いとお礼の云えれるような生き方を、喜び上手というのじぁないでせうか。信心させて頂いていうならばおかげ、我が身におかげを受けてというのは、そういう心の取り方が出来るようになった。
 そしてよくよく数日後とか又は、それが場合によっては一年後という事になるかもしれませんけれども、あのひっかかった事がこういうおかげになったと、あのひっかかる、たとえば日々の事であるならば、昨日あんなに売り上げが少なかったがね、おかげを頂いて、お礼を申さして頂いておりましたら、明くる日は倍もその上もの売り上げを頂きましたと、いったようなおかげになってくるんです。
 だからそこん所を実感として売れなかった時もひっかかりの時であっても、それをお礼が云えれる心の状態を、私はおかげを頂いたんだとおもひますね。喜び上手な人だと思いますね。売れた時には有頂天になって、おかげ頂きましたという、売れなかった自分の思ふようにならなかったら、おかげ頂ききらなかった神様が、力がなかったような事を云うたり思うたりする人がある。どうしてぢゃろうかというふうな思ひ方では、おかげにならんです。どういう時でも、おかげと受け取れるような心の状態が開けてまいりまして、喜び上手になってそういうおかげを、私は人へ伝えていくならば、信心ちぁ有難い事ぢぁあるという事になってくるのぢぁないでせうか。しかもこりぁ限りがありません。もう限りなくすっきりとお礼が云えれる。深い意味においてのお礼が云えれるような、いうなら先ず自らの助かりというのは、そういう頂き方の出来る人を、自らの助かりというぢぁないでせうかね。                                                どうぞ